えるばブログ

自立するためにすべきこと、静かなライフスタイルについて

仲間という言葉を多用する人の違和感

小さい頃から「仲間」という言葉に違和感を覚えていました。学生年代で言うと、「俺の仲間を侮辱した」と言っているヤンキーがいました。

 

社会に出て企業に属してみると、「仲間を見ると頑張れるわ」「仲間なので協力し合いましょう」というふうに言われました。

 

だけどこの「仲間」って良い意味で使われているように見えて、都合よく使っている人んいとっての便利な言葉になってしまっていませんか?

 

そんな疑問を持ったのでここに書いておきます。

 

そもそも仲間とは?

最初に仲間とはどういう意味なのか見ていきたいと思います。

 

「仲間」とは、心を合わせて何かを一緒にするという間柄をかなりの期間にわたって保っている人。そういう間柄。

 

という意味らしいです。心を合わせないといけないんですね。

 

だから心を合わせた覚えのない人の「仲間」という言葉が気持ち悪かったのかもしれません。

 

またゲマインシャフトゲゼルシャフトという言葉があります。

 

ゲマインシャフトは地縁、血縁、友情などにより自然発生した有機的な社会集団のことで、

 

ゲゼルシャフト利益や機能を第一に追求する集団のことです。

 

友達や家族がゲマインシャフトであるのに対して、仲間はゲゼルシャフトということですかね。

 

 

「仲間」って言葉を多用している人・組織は全く信用できない

 

「仲間」っていう言葉を使っている人や組織が全く信用できなかったできないんですよね。

 

まずこの言葉を使う人って結束を強要してきているんじゃないですか。

 

「仲間だからやってくれるよね」「仲間なんだから無理でもお願い」と。

 

こんなの人を都合よく使いたいだけなのではないかと思います。なので正確には「いう通りに動いてね」と言っているんですね。

 

人のことをうまく利用するために「仲間」という言葉を使ってつなぎとめているんですよね。

 

結構めんどくさい人間関係になっちゃいますね。

 

しかも「仲間」という言葉を使う人ってそれ以外の人にかなり冷たいなと思うんですよね。排他的です。

 

僕が所属していたところは集まったときは頻繁に、今までそこから出ていった人、意見が合わなかった人の悪口を言いまくっていました。しかもそれに同意を求める感じなんですよね。

 

自分たちに共感できない人、仲間にならない人の悪口を仲間内で話して、結束を強めようとしている感じ。自分たちは正しいんだ、僕らの所属している組織って良い場所だよねと。村って感じです。

 

スケープゴート理論というのがあります。

 

これは集団の平和は、一人の犠牲者がいることにより成り立つという意味合いで、集団の平和のために、犠牲者が必要ということなんですね。

 

陰口って、直接ではなくても集団にとって犠牲者を作り出して、その人をめっちゃ貶める。そうして、その集団の秩序を守っているんですね。

 

ちなみに僕は、直接的にスケープゴートにされたことがありますが、平静をよそっていても結構きつかったです。

 

そういうことを当たり前にやって、村を維持しているんですね。

 

また、今は仲間でも、都合の悪い言動をすれば排除すると、暗に言われていて、他人を見せしめにする感じ。

 

 

気に入らない言動をした人は排除、参加回数の少ない人はたるんでるとか言っているんですよ。

 

こういうのが、にわかファンを馬鹿にする心理に繋がっているのかもしれません。(こんなことを言ってますが、僕はW杯の時に、渋谷のスクランブル交差点で公共に迷惑をかけている人が嫌いです)。

 

あとは仕事をしていて、残業が当たり前になっているところ。自分が終わったとしても、仲間なんだから手伝ってよとか、長時間労働は全員やっているから当然やるよねみたいな。

 

やってない人はめっちゃ冷たい態度をとる。その人は客観的には悪くないのに、悪者扱いして、追い出してしまったりする。

 

 

利益集団の中では必要

 

もしかしたら組織を守るために必要なんじゃないかと思ったことがあります。

 

組織の価値観が統一されていなければ、組織としてやっていることのクオリティが下がり、組織として弱くなってしまうでしょうから。

 

そういう側面があり、完全に否定することはできません。

 

自分達の利益を守るために、仲間内で結束して、それ以外を排除するのは手段としては、正当なやり方だと思います。

 

仲間内で仲が良ければ、円滑に進む仕事もあるでしょうし。

 

ですが、排他的な雰囲気が蔓延している場所は好きにはなれません。

 

それって組織マネジメントの名を借りたいじめなんじゃないかと思います。

 

仲間を大切にするというのは、とてもいいことなのかもしれませんが、それには排除が内包されていることを意識しなければなりません。

 

実際に怖かったのが、今まで仲間だと言っていた人が、その輪から離れた後、あいつは人間的に良くないとか、心が黒いとか言いまくっているんですよ。

 

それをみると、この組織って仲間じゃなくなると、めちゃくちゃ悪口言うんだなと思って、人に否定的なことをいわれるのが苦手な僕は怖くなってしまいました。

 

また、その組織と価値観が違う人をめちゃくちゃ貶してうるんですよね。それでそのことに同意を求めてくる。

 

そう言う人たちが「仲間」って言葉を使って自分達を正当化している気がしてならないんですよ。

 

仲間がいるから頑張れるの?

 

あとは、仲間がいるから頑張れるって言う人。なんで仲間がいないと頑張れないのか。環境要因とは別に責任を放棄しているように感じます。

 

モチベーションの源が自分ではなく、他人に委ねられていて怖いです。正直自分だけで頑張れない言い訳みたいに聞こえるんですよね。

 

こういう人に限って勝手に仲間認定してきて、やりたくないことも強要してきたりするんですよね。

 

また仲間のために頑張ると言っている人にも違和感があります。

 

なんで頑張る理由が仲間に向くのかわからないんです。仕事だったら顧客のために頑張ることの方が大事だと思うんですよ。

 

結局自分に都合の良い人を「仲間」という言葉で村を作っているだけじゃんと思います。

 

村の住人は帰属意識が高まり、その村の共通目的の達成のために尽力できるかもしれませんが、その外側にいる人は疎外感を味わうことになります。

 

 仲間が必要な時

 

多分何かしらの目的があり、それを実現するために一人ではできないから、もしくは途方もないくらい時間がかかってしまうから、仲間って必要なんだと思います。

 

なので、一人で達成できるものなら、基本的には仲間っていらないんじゃないかと思います。

 

また「仲間」って補完できるスキルを持っていないと成立しないんじゃないかと思うんですよね。

 

あくまで目的達成のために必要だから「仲間」っているんですよね。

 

なのでただ一緒の場所にいる人は仲間じゃないです。

 

あとは仲間意識は芽生えてくるもので、仲間意識を他人から強要されたくないんですよ。その意識のためにやらなくていいことやらなくちゃいけないことが嫌なんですよ。

 

自分達をそれ以外で形容し、つなぎとめる都合のいい言葉、それが「仲間」だと僕なんかは思ってしまいます。

 

もちろん素晴らしい関係もあると思いますし、互いができないことを補う関係は社会の中では必要不可欠です。

 

早く行くなら1人で、遠くに行くならみんなでという言葉もありますし(書いてたら「みんな」って言葉もあまり好きではないことを思い出しました。)

 

ただそれが、押し付けや依存の意味を持つようになっていることに違和感を覚えるし、言葉を多用する人には気持ち悪さを覚えます。

 

でも良い「仲間」人間関係を築けたら幸せな人生だとも思います。